歴史的名所!平等院鳳凰堂を建てた人物とその時代とは?【簡単解説】

例えいままで訪れたことがないという人でも、
宇治の平等院鳳凰堂のことを知らないという人は
まずいないのではないでしょうか。

平成6年(1994年)には
ユネスコの世界遺産にも登録されるなど、
今や京都、いや日本を代表する一大観光地となっています。

もしかすると、
いつも使っている10円玉、
あるいは壱万円札の図柄と言った方が
なじみ深いかもしれませんね。

この鳳凰堂は遡ること約1000年前、
藤原頼通(ふじわらのよりみち)
という人物によって建てられました。

藤原頼通って誰?
という人も多いと思いますが、
彼は藤原氏全盛時代の関白で
絶大な権力を握っていた人物です。

この世をば わが世とぞ思ふ
望月の かけたることも なしと思へば

と詠い、

藤原氏の栄華を誇った藤原道長の息子で、
その道長のすべてを継承した人物
と言った方が分かりやすいかもしれません。

では、平等院鳳凰堂の歴史を簡単にまとめます。

 
 

目次

スポンサーリンク

平等院鳳凰堂の歴史!建物に込められた意味とは!?

平安京のすぐ南に位置していた宇治は、
平安時代より多くの貴族たちが別荘を構える、
いわばリゾート地のような場所でした。

そして平等院の地には、
古くは嵯峨天皇の皇子・源融(みなもとのとおる)
が別荘を構えていました。

ちなみに彼は紫式部が書いた
恋愛小説「源氏物語」の主人公・光源氏のモデル
とも言われている人物です。

その後、幾人かを経て藤原道長の別荘となり、
宇治殿と呼ばれました。

道長が没した後、
権力のすべてを受け継いだ息子の頼通は、
永承7年(1052年)に

別荘だった宇治殿を仏教寺院とします。
これが平等院の始まりです。
 
そして平等院に次々と建物が整備され、
そのひとつとして
天喜元年(1053年)に建てられたのが、

後に鳳凰堂と呼ばれることになる阿弥陀堂です。
 
阿弥陀堂はその名の通り阿弥陀如来を安置した建物で、
東向きに建てられています。

実はこれには重要な意味があって、

仏教の考えのひとつとして西の彼方に極楽があり、
そこには阿弥陀様がいるとの考えに基づいているのです。
 
だからこそ鳳凰堂は西が背になるように建てられたのです。
まさに極楽浄土の世界観を表していると言えますね。

そして屋根の上に乗った一対の鳳凰から、
江戸時代頃に鳳凰堂と呼ばれるようになったと言われています。

ただ、藤原氏の権力を背景に一時は栄華を誇った平等院も、
その後の兵火などによってほとんどが焼け落ち、
今は現存していません。

そんな中、唯一奇跡的に残されたのが鳳凰堂で、
今も往時の姿をとどめています。

 

平等院鳳凰堂にはモデルがあった!?今はなき寺院とは!?

シンメトリーな建物、特徴的な赤い柱、池に架かる橋、
そして目の前の池に映し出される建物の景観は、
まさに極楽浄土をほうふつとさせます。

このような極楽浄土の世界を反映した庭園は、
浄土式庭園と呼ばれます。

こうした庭園は平安時代頃によく造られたのですが、
この平等院鳳凰堂が建てられたときモデルとなった
寺院があったのをご存じでしょうか?

それは藤原道長が寛仁4年(1020年)に建立した

法成寺(ほうじょうじ)です。
 
この寺は晩年に出家した道長が、
自邸としていた土御門邸の隣に阿弥陀堂を建てるため
建立した寺院で、創建当初は無量寿院といい、
後に法成寺に名前を変えました。

法成寺は道長の権力を背景にして、
京都市街を南北に流れる鴨川と、
現在の京都御所の間の広い一帯を占め、
多くのお堂が立ち並んだそうです。

そして鴨川の東側から西方を見ると、
水面の向こうにお堂がある構図が
まさしく鳳凰堂そのものだったと考えられています。

その後、
焼失と再建を繰り返し最後には荒廃してしまい、
今ではもう当時の面影は全くありません。

 

まとめ

以前、
法成寺のあった付近を歩いたことがありますが、
本当にただの住宅街でまったく普通の街と変わりません。

1000年前にそんな巨大な寺院があったなんて、
言われなければまず気付くことはないでしょう。
ただ、京都は歴史の古い街ですから、
実はそのような場所はたくさんあるんです。

こうやって古い歴史のほとんどが
埋もれていってしまう一方で、
平等院では今も1000年前の景観が
そのまま残されています。

考えてみれば、これって奇跡なのかもしれませんね。
タイトルとURLをコピーしました