織田信長と豊臣秀吉が天下人として
政権を担っていた時代ですよね。
ただ、戦国も終わりに差し掛かかって
少しずつまとまってきたとはいえ、
信長の時代にはまだまだそこら中で
ドンパチやっていました。
その後、秀吉の時代になって
ようやく全国を支配下に
収めることができましたが、
それまで力で土地を奪ってきた人たちの意識が
そんなに急に変わるわけもないでしょう。
誰しもがチャンスがあればもう一度、
なんてことを考えていたに違いありません。
でも、そんな時代だからこそ
戦国ファンにはたまらない時代だと
言えるかもしれませんね。
それでは、安土桃山時代とは
いったいいつ始まって、
いつ終わったのでしょうか?
実はこれには明確な答えはありません。
はっきりとした基準があるわけではなく
定義によって変わるのですが、
一般的には室町時代の終わった1573年から、
江戸時代の始まった1603年の間とされています。
目次
【安土桃山時代っていつからいつまで?】室町幕府滅亡に始まる!
安土桃山時代の始まりは元亀4年(1573年)、200年以上続いた足利将軍家を中心とする
室町幕府が消滅したときとされています。
これに遡ること数年前、
当時尾張・美濃などの戦国大名であった
織田信長が京都を制圧します。
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信長のサポートで足利義昭は将軍に就任し、しばらくは良い関係が続きました。
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しかし、次第に信長と義昭の関係は悪化し武力衝突に至ります。
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そして、戦いに敗北した義昭は京都を追放され、事実上このときに室町幕府が滅亡しました。
事実上というのは、
あくまで義昭は京都を追い出されただけで
将軍職に就いたままであったためです。
しかし、これ以降は信長による統治が始まり、
その後も義昭は政権復帰することは
ありませんでした。
よって、実質的にはこの時をもって
室町幕府の滅亡とされ、
安土桃山時代の始まりとされているのです。
次に、安土桃山時代の終わりはいつなのか
ということですが、
これにはいろいろな意見があります。
一般には、徳川家康が征夷大将軍に任じられ
江戸幕府を開いたときとされています。
慶長8年(1603年)のことです。
ただ、豊臣秀吉が亡くなった瞬間から
実質的には家康は天下人だったわけで、
秀吉が亡くなった慶長3年(1598年)、
あるいは慶長5年(1600年)の
関ケ原の戦いの勝利で天下人の地位を
決定付けたときを
安土桃山時代の終わりとする
意見もあります。
【安土桃山時代の由来】地名?城名?桃山は?
安土桃山時代の名の由来は、鎌倉時代や室町時代、江戸時代などと同じく、
地名からきています。
安土とは、あなたもご存じの通り
安土城のことです。
残念ながら「本能寺の変」の後,
すぐに焼けてしまったので残ってはいませんが、
信長が近江の琵琶湖近くに築城した
豪華絢爛だった信長最後の城です。
ではもうひとつの、桃山はどうでしょうか?
こちらはあまりピンとこないと思いますが、
桃山とは伏見城のことです。
伏見城は秀吉が京都の伏見に建てた拠点の城です。
この城が桃山丘陵に建てられていることが、
桃山の由来となっているのです。
ただ、この桃山の地名は
実をいうと江戸時代になってからついた地名で、
伏見城が廃城になった後に 桃の木が植えられたことに由来しています。
なので、秀吉の時代にはまったく桃山と
呼ばれていなかったんだとか。
ならば本来「安土伏見時代」と
呼ぶのが正しいのかもしれませんね。
まとめ
最近、京都御所のすぐ近くで秀吉が晩年に建てた京都新城の石垣が
発見されたとのニュースが
話題になりました。
これは、豊臣家が代々関白職を
引き継いでいく拠点となるよう、
秀吉が子の秀頼のために建てた屋敷です。
もし、あと少し秀吉が長生きして
うまく秀頼に政権移譲できていたならば、
豊臣政権は続いていた可能性は
十分あるでしょう。
その時には、
足利将軍屋敷の室町第(むろまちてい)から
室町時代と呼ばれるようになったように、
この城が○○第と呼ばれ、
○○時代なんて呼ばれることが
あったのかもしれませんね。